2019年11月16日

そうだ! コーヒー牛乳を飲みに、銭湯へ行こう!

「ゆ」と書かれた暖簾。いつもお決まりの下駄箱。暑いねぇ、と言葉をかわす番台。人が使っていると悔しい、“自分の”ロッカー。○○ガラス店と書かれた大きな鏡。お金を入れて使ったことのないマッサージチェア。

なんともワクワクする銭湯の中。浴室の扉を開けると、そこはパラダイス。そう、昭和の香りが、言葉をも古くする。

掛け湯をして、湯舟に浸かると、あ゛ぁ〜と声を漏らさずにはおれぬ。これほどの庶民の幸せがあるだろうか。人がいなければ、泳ぐことも、潜ることもできる。

昔は、背中に般若や鯉、龍がデザインされた人たちもいっしょに入っていた。別に怖くもなかったし、キレイだと思っていた。広い洗い場で、気持ち良く身体も洗えた。

浴室から出ると、最高の幸せが待っていた。

コーヒー牛乳。

これを美味しく飲むために、のぼせるくらいまで、湯に浸かっていたものだ。ゴクッゴクッ! 一気に飲む。これが幸せ。

人は、小さな幸せのために、一生懸命働くことのできるものだと思う。最近は、みんな贅沢になり過ぎだ。贅沢に慣れてしまうから、次から次へと贅沢を求め、借金までするようになる。

バカだ。本当の幸せを知らない、愚かなやつばかり。自分のまわりを見てみろ。幸せなんていっぱいあるものだ。

いま、銭湯がちょっと高くなっているが、温泉リゾートや健康ランドに比べれば安いもの。それに、この手の施設は、レストランやゲームセンターなどの誘惑も多いので、お金がかかってしまう。

小さな子どもがいるなら、ぜひ、銭湯に連れて行ってあげよう。きっと、コーヒー牛乳の美味しさを知るはずだ。

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2019年06月22日

静かなる珈琲の薫り。

飛騨高山。過去に二度この地に宿を求めた。そのどちらもが、バイクでのソロツーリングだった。大阪から高速を使わず国道を走り、約8時間掛け、この地に辿り着く。

へとへとになったものの、宿の食事とゆったりとした風呂、そして、町の風情で心までもほぐされた思いだった。話は、この旅のことではなく、三度目の訪問の時にたまたま入った、珈琲店のことである。

店のある場所は、高山でもっとも知られている三町筋と言われる通りで、漆喰の壁や古びた土蔵など、江戸時代の町並みがそのままに残っている。

土蔵を改装したと思われるその珈琲店の入口横には、塗りがところどころ剥げた、なんとも味わいのある柱時計が掛けてあった。しっかりと今の時刻を告げているのである。

こんなところに掛けておいて、取られはしないのだろうかと、いらぬ心配をしてしまう。というより、何とも贅沢な使い方だと、羨ましく思っただけかもしれない。

店の扉を開けると、肌に少し冷たい感触があり、とても気持ちが良い。左手には、よく磨きのかかった重量感のある木のカウンター。そして、背の高い木のスツールが、5〜6脚並んでいる。右手が主に客席になっているのだが、テーブルと椅子がすべて形の違うもので、5セット置いてある。

アメリカの牧場に建つ家のダイニングにあるような、どっしりと大きな木のテーブルと背のないベンチタイプの椅子。かと思うと、隣にはアールデコ風の優雅な席がある。

私と友人が選んだ席は、少し背の高い円テーブルとヨーロッパ調の椅子だった。書き忘れていたが、私はこの地に、ごく親しい女性友だちと来ていた。過去に二度来て、とても気に入った場所を彼女にも見せたかったからである。

ふたりで座った席からは、店全体が見渡せた。白い土壁に、黒く渋い大きな柱が縦横に走り、建物を支えている。明かりは、高い位置にある小さな窓から入る少しの陽射しと、小さなペンダント型のライトが数本ぶらさがっているだけで、適度な落ち着きのある明るさを作り出している。観光地にあって、人通りの多い道に面しているにも関わらず、実に静かである。

私たちは、白いシャツをラフに着こなした、物静かな話し方をするマスターに、サントス珈琲とミルクティーを注文した。

珈琲が来るまで、店の中をじっくりと眺めさせてもらった。飾り気はまったくないけれど、手入れが行き届いていることはすぐにわかる。ふたりが揃って、気に入ってしまった。

テーブルに置かれたサントスは、薫りある白い湯気を静かに立ち上らせた。時の流れなど、気にさせないほど、ゆっくりと、ゆっくりと。サントスが持っている酸味と渋さが好みである。私も白い湯気のように、サントスをゆっくりと喉へと滑らせた。

こんな時間を持ったことは、これまでに皆無だった。こんなに美味しい珈琲を飲んだこともない。照明、テーブル、椅子、マスター。そのすべてが微妙なバランスで溶け合い、この一杯の珈琲を美味しくしているのだろう。

隣にいる彼女にとっては、紅茶が同じ時間を作り出していた。お互い飲んだものは違うけれど、同じ空気の中で、同じ時間を共有できたことに、満足していた。

これから先、いつまでもこの場所にあって欲しい店である。おそらく、何度か足を運ぶことになるだろう。それは、この一杯の珈琲を飲むためだけの旅になるかもしれない。

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2019年06月02日

ボラボラ島をバイクで走る。

ボラボラ島には、海があるだけだった。でも、その海はまったく濁りがなく、キレイという表現が俗っぽく聞こえるほど、度を超した美しさだった。

僕と彼女、いや妻、家内、女房は、この美しい海の島でどのように過ごすかを考えていた。実は新婚旅行だったので、彼女の呼び方に戸惑いがあった。やはり、ここでは彼女と表現しておこう。その方が小説みたいだから。

ガイドブックでは、ホテルにはレンタルの自転車とバイク、自動車があるとなっている。島のまわりは1本の道路があるだけで、自転車でも2時間あればまわれると書かれている。

僕たちは迷った。車はペーパードライバー。バイクの免許はあるが、国際免許は取って来なかった。とすると、自転車ということになる。でも、このホテルは島の繁華街や他のホテルから離れたところにある。それに、自転車には乗り馴れていないので、疲れるだろうなぁ、となった。どうしようか。

ふと頭をよぎる思いがあった。ボラボラはのんびりとした島だ。人もおおらかだろう。きっとそうだ。ダメで元々。ええい、バイクを貸してくれるように言ってみよう。

フランス語と原住民の言葉の島だけど、ホテルだから英語ぐらい通じるだろうと、フロントに向かった。と言っても、僕と彼女は英語さえできない。

ドキドキ、ドキドキ。「エクス、キューズ、ミー。プリーズ、レント、ミー、ア、バイク。いや、オートバイシクル」。

国際免許のことを聞かれたら、どうしよう。すると、パレオ(身体に巻いたりする、カラフルな布)を着たフロントの女性は、「スクーター?」と聞いてきた。そうか、スクーターで通じるのか。「イエス、スクーター」と、笑顔で愛想を振りまいてみる。

なんということか。免許証の提示を求めるでもない。いきなり何時間必要かと聞かれた。僕たちは、顔を見合わせ、「やったー!」と心で叫んでいた。取り敢えず、1日乗るつもりで、8時間借りることにした。

ブゥーン、バォーン、バワリ、バリ。変な音をさせながら、後ろに彼女を乗せた僕たちのスクーターは、海岸線を走り出した。

空が青い。この空を見ていると、日本の空は何色だろうかと考えてしまう。海が透明。おかしな表現だけど、水道の水を入れているような感じさえする。

降り注ぐ光の中を、風をきってふたりは走り続ける。互いの想いを背中と胸に確かめ合いながら。などと、片岡義男してしまうほど、酔いしれることができる島なのだ。

ところが、ふたりの格好ときたら、よれよれのTシャツに短パンという、海水浴に来たおじさんとおばさんのスタイル。バイクは、80ccのママさんタイプスクーター。おまけにヘルメットが、アメリカのハイウェイパトロールときている。どうして、こんなヘルメットがあるんだぁ。あまりにも、格好良過ぎる。でも、ふたりは気にしない性格だ。楽しければ、それで良い。

島を一周するには、自転車で2時間だと書いてあったので、スクーターなら1時間も掛からないだろうと、のんびり走った。景色のいいところではスクーターを止め、ボ〜。ポストにフランスパンが入れてあるのを見ては、感激してボ〜。地元のキレイな女性がいては、ボ〜。おっと、これは僕だけだが。そんな時には、僕の頭に後ろから、手がバチッ!。

のらりくらりとスクーターを走らせ、島内一周を楽しんだ。スクーターは壊れることなく、無事帰還した。

そうそう、途中で恐ろしい光景を見たことを書かずにはおれない。眉毛はつり上がり、目はつり上がり、口までつり上がった女性が、自転車をこいでいた。明らかに怒っている。その後方の自転車には、困った顔をした男性。事情はすぐに理解できた。

ふたりのいた場所は、繁華街から離れた、島内のまったく反対側。店も何も無いところ。自転車で島を一周しようと考えたらしい。スクーターで一周してみたら、走っている時間だけでも2時間は掛かった。つまり、ガイドブックは嘘つきだったのだ。

新婚旅行らしいこのふたりは、それを信じたに違いない。疲れ果て、口もきかずにホテルを目指していたのだろう。きっと離婚するぞと、僕たちは人の不幸を笑ってしまった。本当に離婚していたら、ごめんなさい。あの時、スクーターを借りなければ、僕たちも離婚していたのかな。いやぁ、良かった、良かった。

何事もそうだけど、とにかくやってみること。特に旅行先では。失敗しても、想い出が増えていくのだから、良しとすること。しかし、国際免許なしでスクーターを貸してもいいのだろうか。後でわかったことだけど、ガイドブックには国際免許を取って行った方が良いとある。やはり、免許がいるのだ。捕まらなくて、ホッとした。

僕は元々「とにかくやる」タイプだけど、彼女も旅行以来、同じタイプになりつつある。ふたりで何でもやってみる。それが、生活を楽しいものにしていった。

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2018年08月04日

息子は、私たちを育ててくれた。

1993年10月11日。私は電器店の一角で、ビデオカメラを手にしていた。にやけた顔して子どもを撮影しているような親父にはなりたくなかった。正直、バカじゃねえか、とさえ思っていた。ところがどうだ。息子が生まれた次の日に、しっかりとビデオカメラを握りしめていたのだ。あちぁ〜、である。親とはこんなものなのか。そんな自分を認めたくないながらも、せっせと撮影し続ける自分を素直に受け入れていた。

我が息子は「翔馬(しょうま)」と名付けた。嫁が、である。私は女の子が欲しかったので、嫁に任せた。愛情が無いのか、と思われるかもしれないが、中学・高校と成長した姿を想像すると、ええい、うっとうしい!である。それに男の子は育てるのに手間がかかると聞いていた。病気だ何だかんだと大変らしい。が、そうでもなかった。大きな病気もせず、夜泣きも大したことはなかった。ぎゃ〜ぎゃ〜うるさいながらも、外ではおとなしくしてくれていたので、楽に出かけることができた。

他の子どもに比べれば楽だったと思うが、当時はイライラに「超」がついていた。子育てなんて私たちには無理だ、と思っていた。私も嫁も子どもの犠牲になるのはイヤなタイプだ。イライラが募り、夜中にコンビニに走ることもしばしば。夜鳴きそば(表現が古い)を食べることも。ゲームばかりする日が続いたことも。でも、翔馬を見ることは楽しかった。子育てのすべてを笑顔で受け入れている人がいるとは思えないが、自分たちはダメな親だった。

いろんなことがあった。苦しいことも楽しいことも、過ぎてみれば、いい経験だ。私がおむつを取り替えている時だった。【びゅっ!】【ピチャッ!】20センチ以上離れていた私の手に、なんと、う、うんちが飛んで来たのだった。私は止まった。目の前の現実を受け入れることができなかった。それを見ていた嫁は、大声を部屋中に轟かせ笑いころげていた。私も笑うしかない。

うんち事件はこれで終わらない。今度はおしりを拭いていたら、【うにゅ〜】。私の手の上に、う、うんちをのせた。今回は現実を理解できた。少しの間の後、わたしは「うんぎぁ〜」。嫁の大笑いは終わりを知らなかった。

子育てというのは、楽しくはない。面白いだけだ。しかし、その面白さがクセになるのかもしれない。初めて寝返りをしたとか。しゃべったとか。歯が生えたとか。あたりまえのことが、神秘的で面白い。生き物が育っていく過程を見ることができるのだ。子育てのアドバイスをする人たちが聞いたら、なんて不謹慎なと言うかもしれないが、子育てなんてそんなものだと思っていた方が楽である。

ちょっと手を貸すだけで、あとは、傍観していればいいんじゃないだろうか。正しい子育てなんて無いと思う。子どもそれぞれに特長が違うし、その時々で対処すればいい。私が考えるのは、『親がすこやかに生きていれば、子どもは勝手について来る』ということだ。子ども中心の生き方は自分たちも子どもも窮屈である。みんなでのびのび暮らしてゆければ、きっといい子になる。翔馬は素直にのびのび育っている。親バカだろうか。

翔馬が生まれた時、私は会社をやめた。木のおもちゃを創りたくて、その勉強のために退職した。それと一年間は勉強しながら、子育てをしてみようと考えたからでもあった。こんな機会はめったにない。

勉強と子育ての日々が始まった。だが、実際はあまり勉強に身が入らなかった。翔馬がかわいい時には、ずっとそばで見ていたし、手間のかかる時には、イライラするし。結局は子育て中心の生活だった。

でも、子どもをずっと見ていることは、木のおもちゃづくりにはとても大きな意義があった。子どものことを知っているのとそうでないのとでは、創るモノが違ってくる。子どもの言葉がヒントになることも多い。

翔馬が1歳になった時、自分で作った「木馬」をプレゼントした。ヨーロッパの古い風習で、子どもの一歳の誕生日には「木馬」を贈るという。翔馬はとても喜んでくれた。五歳くらいまで、たまにのって嬉しがっていた。作った者としては喜ばしいことだが、五歳でのっている我が子を見ると、ちょっと考えるものがある。
                
木馬を作った頃から、本格的におもちゃづくりに取りかかった。その間、マンションから借家、さらに現在の田舎へと移り住んでいた。翔馬が三歳半ぐらいの時に、村へとやって来た。

木工のためと田舎暮らしへの憧れからだった。子育ての環境としても良いから、などと思ったわけではない。でも、翔馬がのびのび、のんびり、ぼ〜っと育っているところを見ると、田舎は合っているのだろう。都会の競争に巻き込まれていたら、これから先、挫折やいじめでキレる子どもになっていたかもしれない。田舎が絶対にいい、と言うわけではないが、すこやかに育つ可能性は高い。

親もすこやかに暮らせるから、子どもにガミガミ言うことも少なくなる。みんながのびのび生きてゆけることが、子育てにはいいことかもしれない。

村では、忘れかけていた土いじりができるし、川遊びもできる。散歩だっていろんな発見があって、とても刺激的だ。季節の食べ物をいただけたりもする。その時初めて、「旬」を知ることになる。都会人とは情けないものだ。

とうもろこしのきらいだった翔馬が、もぎたてをうまそうに食べたことも驚きだった。とりたてのいんげんを茹で、塩をかけただけのものをむしゃむしゃ食べる姿も楽しい。我が家でできたキュウリをまるごとかじる光景もなかなか絵になる。田舎で良かったと思えるのだった。

ただ、素直に育っていると思っても、子どもは生意気になってくるもの。これは仕方のないことだけれど。翔馬に「こら、聞いてんのか?」と言うと「聞いてな〜い」。「人の話、聞いてくれよ」と言うと「また今度、話しよな」と親をバカにしている。どんな頭の構造になっているのか。1歳くらいの時、喜ぶからと振り回していたのが悪かったのか。

モクズガニ(川ガニ)を見て翔馬「わぁ、カニさん、美味しそう!」。テレビでフクロウがネズミを食べているシーンを見て、父「ネズミかわいそうやな」。翔馬「でも、ああいうのが自然なんやで!」。あんたは正しい!自然のことがわかっているのは、田舎暮らしのおかげかもしれない。

これからもこのまま素直に育ってくれるだろうか。親としての心配は多少あるものの、あまり深く考えてはいない。私たちも田舎暮らしで変わってきたのだろうか。

あれこれ笑わせてくれたり、考えさせられたり。翔馬を育てることで、自分たちの成長していくのが、とても良くわかる。子どもはいた方がいい、とは言わないが、いてもいいとは思う。子どもがいることで失うものは確かにある。でも得るものはそれ以上に大きい。自分を成長させてくれる大きな存在かもしれない。

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2018年07月13日

私のたこ焼き修行。

私は、兵庫県尼崎市生まれ。大阪人ではない。しかし、ヤンキーの街、ディープな下町、という視点から見ると、文化圏はまったくの大阪だと思う。けっして、神戸ではない。「上品」などという言葉を知らずに育ってきた。

食に関しても、大阪と同じ。おばちゃんが一人でやっている、お好み焼き屋。屋台や駄菓子屋で焼いている、たこ焼き。おやじから子どもまで出入りする、汚ったねぇホルモン焼き屋。飾り気のまったくない、うどん屋。

そんな環境で育った私は、生まれた時から、「食」への執着がすごかった。たこ焼きには、特にそう。小学校になって、小遣いをもらうようになってからは、遊びに行くと、必ずたこ焼きを食べていた時期がある。

一番よく食べていたのが、通称・三角公園の屋台だ。三角形の突端に勝手に設置した、固定式の屋台。小さな、小さな屋台。木の舟に6、7個入って、20円くらいだったと思う。もう、毎日のように、これを食べていた。好きで好きで、舟についたソースまで、ベロッベロになめていた。お里が知れますわ。それくらい、好きだった。

おばちゃんが、たまに、焼きすぎたたこ焼きをおまけにくれるのだが、これが嬉しい。ちょっと固くなっているけど、ものすごく得をした気分になる。なんて優しいおばちゃんなんだ。こんな優しい人が世の中にいるのか、と思ったものだ。まぁ、いま考えれば、そんな商売人はたくさんいたような気がする。古き良き時代かな。

この屋台、ちょっとだけ問題があった。たまに、焼くおばちゃんが変わってしまうのだ。それは、代わりに焼くというのではなく、商売をやめてしまい、他の人に営業を譲ってしまうようだった。何人か変わっていた。

一度、マズ〜い時があった。たこも入っているのかどうか、疑わしい。ソースもケチるし、私の好きな青のりも、パラッ!くらいしかかけない。

買わなくなってしまった。しばし、他の店で我慢。しばらくしたら、また別のおばちゃんになって、美味しくなり、また通うようになった。

たこ焼きの想い出と言えば、友だちの誕生日パーティがある。友だちのお母さんが、たこ焼きパーティをしてくれたのだ。これは嬉しかったと同時に、ショッキングな出来事だった。家にたこ焼き器がある。家でたこ焼きが作れる。なんという、憧れの生活だろう。毎日、タダで食べられるなんて(実際はタダではないけど)。

好きなだけ、思いっきり、イヤというほど食べられる生活。こんな素敵な家庭があるなんて。あぁ〜、私は不幸だ。なんで、こういう家に生まれなかったのかぁ〜。………というくらいの衝撃だった。

後で聞いたところ、その友だちのお母さんは、昔、三角公園でたこ焼きを焼いていたそうだ。おぉ〜、運命だ。私は、そのお母さんから買っていたかもしれない。

ほどなく私は、たこ焼きの鉄板だけを、親に買ってもらった。たこ焼き器は高いので、買えなかった。

それから私は、たこ焼き職人への道を歩むことになる。んなことはない。でも、練習はした。しょっちゅう焼いていた。しかし、しかし。どうにもならない、大問題があったのだ。これが元で、私は、何年もたこ焼きを焼かなくなるのだった。

お好み焼きソースが、市販されていない……。そう、その頃はまだ売られていなかったのだった。たこ焼き屋さんは、業務用のお好み焼きソースを独自にブレンドして、使っていた。業務用なんて、どこに売っているのか、知らなかったし。

それで、仕方なくとんかつソースをかけていた。しばらくは、それでも満足していたけど、やはり違う。ソースをベロベロしたくはならなかった。そして、焼かなくなったのだ。あぁ〜。

大人になると、お好み焼きソースがスーパーに出始め、私のたこ焼き修行が再開された。ガス式たこ焼き器も買い、よく練習していた。屋台で焼いている光景が、眼に焼きついているので、技を習得するのに、それほど時間はかからなかった。

いまでは、プロとして……やってへん、やってへん。まっ、自宅で焼きまくっている。家族三人で、二百数十個を食い尽くすまでに成長した。

友だちの誕生パーティがなかったら。あのお母さんがいなかったら、友だちは生まれていない。じゃなくって、私の人生が変わっていたかもしれない。たこ焼き職人には、なっていなかっただろう。なってへん!

あのお母さんには、足を向けて寝ることはできない。どこにいるかは知らないが。ア〜ハ〜。

posted by 遊酔 at 09:05| Comment(0) | エッセイっぽい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする