2019年07月02日

僕だけの絵。

髪の短い女性の後姿は、男っぽく見えるものだけど、
彼女は違っていた。
グレーのトレーナーに、ブルージーンズ、
白のスニーカーという、活動的ないでたちなのに、
彼女の“線”はとても優しかった。
彼女は、1枚の絵をかなりの時間じっと見つめていた。
お気に入りの絵だろうか。
それとも、画家のテクニックを読み取ろうとしているのか。
彼女が見つめている絵は、モスクワで生まれた、
抽象絵画の先駆者とも言われる画家の作品だった。
僕は、とても彼女に興味を持ってしまった。
絵を見つめる彼女が、
僕の目の中では、その絵とひとつになっていた。
この瞬間、時の流れは遅くなり、
僕の心が次第に彼女に導かれていくのを感じた。
どのくらい経ったのだろうか。
気がついた時には、
彼女のいる絵が僕の目の前から消えていた。
その美術館は、海に近く、静かな住宅街にあった。
僕は、好きな画家の絵が来るたびに、ここへやって来る。
しかし、彼女に逢ったのは初めてだった。
美術館を出ると、僕はいつものように、
海までの並木道をゆっくりと散歩した。
彼女の後姿が、気になって仕方がない。
ひと目惚れしたのだろうか。
彼女のことばかりを思っているうちに、海についていた。
海は、僕の心とは対照的で、
いつものように穏やかだった。
その後、何度もこの美術館に足を運んだ。
彼女を探すためだった。
でも、あの後姿を見つけることはできなかった。
何年か経って、僕は結婚した。
彼女と出逢ったのも、この美術館だった。
同じ絵はがきに、同時に手を伸ばしたのが彼女だった。
そのはがきは最後の1枚で、僕は彼女に譲った。
僕は、初めて女性をお茶に誘ってみた。
それは、彼女の笑顔が
とても素直な子どものように見えたからだった。
大人の女性に失礼かもしれないけど、
純粋さを感じたからかもしれない。
僕たちは、好きな画家や絵について話した。
時の経つのも忘れるくらいに。
そして、1年後結婚した。
ふたりとも、絵を観るのがただ好きなだけで、
自分で描くことはなかった。
ある日、海の近くの美術館に、
あの時の画家の作品が再びやって来ることになった。
彼女のことは忘れかけていたけれど、
鮮明に思い出してしまった。
でも、それは恋心ではなく、懐かしさに変わっていた。
もしかすると、
あの後姿を見つけることができるかもしれない。
僕たち夫婦は、日曜日に美術館に出掛けて行った。
奥さんもその画家が好きだった。
その展覧会では、あの時の絵が掛けてあった。
すると、その絵を見つけた奥さんが、
足早に近づいて行った。
僕のことも忘れているかのごとく。
その絵の前に立った彼女の後姿を見た時、
僕は小さく驚きの声を出してしまった。
とても優しい線を持った後姿。
髪の長さは違うけれど、確かに彼女だ。
あの髪の短い彼女の後姿そのものだった。
あれから何年経っただろうか。
あの時と同じ、僕だけの“絵”を見つけることができた。

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2018年08月23日

薫りが運んだ時間。

彼女の転勤は、異例のことだった。
それは、彼女が現在、責任のある仕事に携わっていたからだ。
大阪本社の企業だったが、
東京での大プロジェクトをきっかけに、
東京本社へ移行することが決定していた。
大阪の企業としては、よくある話だった。
そのプロジェクトでの彼女の役割は、
社の将来を左右すると言ってもいいほど、責任が重かった。
彼女は、仕事を選んだ。
彼への想いをあっさりと断ち切ったかに見えた。
彼は、彼女の仕事への情熱を理解して、別れることを決めた。
と言えば聞こえはいいが、実のところ、
大阪に残って俺といっしょになってくれ、
と言えなかっただけのことだ。
そのころの彼には、結婚というかたちへの執着がなかった。
それゆえに、彼女を止めることができなかった。
そんな彼の心を見透かして、
彼女は東京行きを決めたのだった。
彼は後悔したが、すべてのことは、時が解決してくれた。
2年が経ち、彼女にも彼にも、お互い新しい恋人ができていた。
しかし、彼女は仕事に追われ、
あまり恋人との時間をつくれないまま、なんとなく続いていた。
彼は、彼女とはまったく正反対の性格を持った恋人との時間が、
楽しく流れていた。
すでに、結婚の約束をしている。もう、ためらいはなかった。
恋人とずっといっしょにいたい。ふたりでともに歩んでいきたい。
そう、考えるようになっていた。
結婚が近づくにつれて、彼女のことが想い出される。
それは、恋ごころや未練などというものではなく、
愛おしさとでもいうのか。会って話がしたい。
結婚することを誰よりも先に告げたいと思っていた。
彼は、彼女に会うことを決め、電話器に手をかけた。
しかし、しばらく会っていないことで、
照れのようなものが胸を高鳴らせた。
手紙を書くことにする。
あれこれ文面を考えるのだが、どう書けばいいのか、
どう切り出せばいいのか。
いや、その前に会う場所を決めなくては、としばらく悩んでいた。
会うためには、東京へ行けばいいのだが、少しためらった。
最後になるかもしれない。
想い出などと男が考えるのも気恥ずかしいが、それが欲しかった。
過去に二度、彼女といっしょに旅した、
飛騨高山で会うことができれば。
ふたりがともに気に入った珈琲ショップで話すことができれば。
そんな想いを手紙に綴った。
その珈琲ショップは、朝市が立ち並ぶ川沿いにあった。
あたりは、昼ごろまで地元の人や観光客で賑わっているが、
その中にありながら、扉の内側はとても静かで、落ち着ける。
そのショップには、二度の旅で四度訪れている。
二泊の旅を二度するうち、旅館の朝食後はかならず、
朝市を見物がてら、このショップでゆったり珈琲を楽しんだ。
店の床は板張り、といっても、フローリングという印象ではなく、
古い小学校の教室を思わせるようなものである。
しかし、丁寧に掃除が行き届いていて、美しくさえある。
通りに面した窓は、
白い枠が床上30センチほどのところから始まり、
天井いっぱいまで大きくとってある。
この窓からの明かりで、室内の照明はいらないほどだった。
壁には、珈琲の木から赤く熟した果実を
摘み取る人たちの絵が数枚かけてある。
店内のところどころには、おそらく珈琲に関するものであろう、
調度品がさりげなく配置されている。
かといって、いかにも珈琲店という、白々しさはない。
珈琲を楽しむための適度な演出だった。
彼女から手紙の返事が届いた。
高山で会うことを快く承諾してくれ、日時を指定してあった。
彼は、高山に着いてから、約束の時間にはまだ少しあったので、
町中をゆっくりと歩いた。
建物ひとつひとつのかたちや色合いを憶えるかのように。
何度来ても飽きることなく、
自分の生まれ育った町のような感覚があった。
彼女も予定より早く高山の駅に降り立ったが、
まっすぐに珈琲ショップへと向かった。
約束の時間には、1時間以上もある。
けれど、想い出の店でゆっくりと
ひとりの珈琲を楽しんでみたかった。
モカを注文し、通りを行き交う人びとを眺めていた。
昔の自分のことや彼と過ごした日々が静かに浮かんで来た。
それは、テーブルに置かれたモカの薫りのように、
ゆっくりと、ゆっくりと甦って来た。
扉が開く音で、この店にいる現在の自分に引き戻された。
気がつくと、そこに彼が立っていた。
しばらくぶりだね、というありきたりの言葉を交わし、
彼は彼女の向かい側に腰掛けた。
つき合っている時には、正面に座ることなどなかった。
それだけ、彼女との距離ができたことを語っていた。
彼の注文したマンデリンの薫りが、彼女へと届いた。
彼女は、時の流れを感じた。
マンデリンは、苦みと濃厚なコクを持った珈琲だが、
昔の彼は、違う風味を好んでいた。
彼女は、昔と同じモカ。
自分だけ変わっていないような気がして、
淋しいとさえ思った。
珈琲の薫りで、彼の話の内容は見当がつく。
昔のままの薫りだったら、わからなかったかもしれない。
もしかしたら、
彼は再び恋人となることを望んでいるのかもしれない、
とも考えていたからだった。
彼女は、清々しさと淋しさを一度に味わったような気がした。
彼に幸せになってほしいと思いながら、
嫉妬まではいかないまでも、複雑な気持ちだった。
彼が話し始めた時、彼女は二杯目の珈琲、
苦みと酸味が少し強いサントスを注文した。

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2017年10月22日

男たちが語らう港のショット・バー。

カウンターに片ひじをついて、
ウィスキーのロックスを飲んでいる男がいた。
ほどよくキズのついた皮のジャンパーを着て、
髪の毛は短く整えられている。
このバーには、そんな男がよく似合っていた。
天井からのやわらかい光が店全体にあたり、
その中に男は静かに立っていた。
男は、僕を待っていた僕の友人だった。
彼に会うのは5年ぶりだろうか。
彼は5年前、ブラジルに渡って大農場をやる、
と言って日本を出て行った。
彼と最後に会ったのも、このバーだった。
大きな夢を抱いて、この港から出て行った。
そしていま、この港へ帰って来た。
僕が彼の肩を叩くと、懐かしい笑顔でこたえてくれた。
僕はこんなに素晴しい笑顔を見ることができるとは、
正直思ってもいなかった。
彼はまた、ブラジルに戻ると言っていた。

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2017年10月10日

古き良き時代が甦る小さなシネマ館。

港の近くに、とても小さなシネマ館があった。
いや、シネマ館と堂々と言えるほどの設備はない。
古ぼけた洋館の物置として使われていたところに、
スクリーンを掛け、椅子を適当に並べているだけの簡単なものだった。
そのシネマでは、
1930年代のアメリカ映画やフランス映画を上映している。
なぜ、30年代なのかは僕は知らない。
この建物が1936年にできたことから、
そう決めたのではないかと僕は思っている。
1週間ごとに映画が変わる。
名画と呼ばれる作品もあれば、B級作品もある。
1930年代という、こだわり以外は何もない。
僕は、ひと月に一度やって来て、古い映画を楽しんでいる。

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2017年10月03日

価値のない物を売る古道具屋。

その店は、アンティークショップと呼ぶには、雑然としすぎていた。
骨董屋にしては、あまり値打ちのある品物は置いていない。
まさに、古道具屋であった。
ほこりをかぶった書棚。ところどころ欠けている火鉢。
よれよれのシルクハット。壊れた柱時計。
そんな物が秩序なく、ところ狭しと置かれている。
彼女は、2週間に1度程度の割合でこの店に足を運ぶ。
腕時計を探すためだった。
ただ古いだけで、
修理しても動くことのないような時計を集める癖があった。
趣味というより、癖と言った方が適切だった。
彼女は、その時計が指している時刻に、
言葉で表わすことのできない感情を抱いていた。
何十年か前のその時刻に、この時計はどんな状況にあったのか。
あれこれ想いをめぐらすことが好きだった。

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2017年09月24日

写真集・画集のある古い珈琲ショップ。

その珈琲ショップには、写真集や画集がたくさん置いてあった。
客は、自由にそれを眺めることができる。
古い建物を改装したらしく、落ち着いた時間を過ごすことができる。
テーブルや椅子、本を置いた棚など、
歴史を知っているような昔のものだった。
そして、比較的明るい照明でテーブルだけを照らしている。
写真集や画集を見るための照明だった。
僕はいつも彼女に連れられて、この店にやって来る。
ふたりで画集を見ながら、
その中の絵について取り止めもない会話を楽しんでいた。
珈琲2杯で、ちょっといい時間を手に入れることができる。
ふたりのお気に入りの店だった。

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2017年09月17日

港めぐりの船を待つための珈琲ショップ。

1週間前にやっと連絡が取れた。
彼女は、出張が多い。ひと月に一度ないし二度会えればいい方だった。
久し振りに会うことにしたのだが、
何処で会うかはなかなか決まらなかった。
電話で20分は悩んでいた。
そして結論として、彼女の提案を採用することになった。
街なかの雑踏を避けて、港に行くことにした。
彼女は、海が好きだ。海さえあれば、僕もいらないくらいだった。
港の珈琲ショップで待ち合わせて、船に乗ろうという提案だった。
船は、港をゆっくりとまわる遊覧船である。
彼女の指定した珈琲ショップに行ってみると、
そこはカウンターだけで、椅子のない小さな店だった。
立って珈琲を飲む。
そこのメニューには、数種類の珈琲とサンドウィッチ、
ホットドッグだけが書かれていた。
約束の時間までは、まだ少しある。
この店は昔、船の待合所だったらしい。
なんとなくそんな雰囲気を残しながら、どこか懐かしい感じがある。
あまり手を加えず、珈琲ショップに改装している。
そんな風に店を見渡していると、彼女が僕の肩を軽く叩いた。

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2017年09月09日

現代アートの新人を紹介する小さな画廊。

現代アートと呼ばれる作品を見ることが、
彼女の好きなことのひとつだった。
彼女は、名のある人の作品ではなく、
これからひょっとすると有名になるかもしれない、
可能性を秘めた作品を探し出すことを得意としていた。
休日には、小さな画廊をいくつかまわることがある。
ひとりでそんな時間を楽しんでいた。
中でも、港の近くの本当に小さな画廊は、お気に入りの場所だった。
若い人たちの作品を毎週替えて紹介している。
ひとつひとつの作品を丁寧に時間をかけて見ていく。
少し疲れてくると、
その画廊と同じ建物の2階にあるコーヒーショップで、
エスプレッソを飲みながら、物思いを楽しむのだった。

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2017年09月01日

窓から港が見えるカウンターバー。

足を進めるごとに軋んだ音をたてる廊下の突き当たりに、そのバーはあった。
2年前のちょうど今頃。秋の風が吹き始めていた頃。
3年間付き合っていた女性と最後の会話を楽しんだ場所だった。
古ぼけたバーだが、綺麗に掃除が行き届いていて、落ち着ける空間だ。
暗くもなく、明るくもない照明が、
天井から床に数ヵ所、小さなスポットをあてていた。
窓の外には、港が見下ろせる。このバーは2階にあった。
港めぐりの船が、波にゆられながら停泊していた。
彼女と一度乗ったことがある。
このバーは、潮の香りを肴に
ウィスキーを飲むことが似合うと、彼女が言っていた。
僕は、フィッシュチップスを食べながら、
バーボンを飲むことが好きだけれど。
2年ぶりにこのバーの扉を開けた時、
カウンターの窓の中央あたりに、彼女の姿を見つけることができた。
彼女は、バーボンを飲んでいた。

posted by 遊酔 at 08:45| Comment(0) | 裏遊酔・ショートストーリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする